日本の平成7年の平均寿命は、男性76.38歳、女性82.85歳となっていて、世界でもトップレベルの長寿国です。ところで、平均寿命とはだれの寿命なのでしようか?平均寿命は、0歳児が生きると期待される年数(平均余命)です。この平均寿命は、国勢調査や人口動態統計(生まれた人や死んだ人についての調査)を利用して厚生省が作成する生命表に載っています。日本では、大正10年から14年の人□について作成された生命表が最初の正確な生命表とされています。
 さて、これより古い時代の平均寿命はどうだったのでしようか。最も古い生命表は、ロンドン市民について17世紀中頃に作成されたのもので、この時の平均寿命は、わずか18.2歳でした。また、17世紀末には、ハレー彗星の発見で有名な天文学者のハレーがシレジアのプレスロウ市(現在のポーランド、Wroclaw)の生命表を作成しました。これはロンドン市民の生命表と比べてかなりしっかりしたものとなりました。
 では、これより古い時代の人々の寿命はわからないのでしようか?生命表が存在しない時代の平均寿命でも、お墓や遺跡から出土した骨の状態を調べて、死亡時の年齢を評価することから推定できます。このやり方で世界各地のいろいろな時代の寿命が推定されています。日本でも、縄文時代の遺跡(主に貝塚)から出土した人骨を調べて寿命の推定がおこなわれています。この推定では縄文時代早期から晩期までの遺跡から出土した人骨のうち死亡時年齢が15歳以上と推定された男女合計235例のデータに基づいて生命表が作成され、寿命が推定されてます。ここで、15歳以上を対象としたのは、子供の骨の出土数が成人と比較して少なかったためでした。青森県の三内丸山遺跡でも子供と大人の墓は別な場所に作られていて、このような区別が子供の骨が少ない原因の一つと考えられています。作成された生命表で、15歳の縄文人の平均余命は、男女ともに16年となりました。では、縄文時代の平均寿命は、15+16で31歳でしょうか?いいえ、この中には15歳までに死亡した子供が含まれていません。このために、15歳までの死亡数については、18世紀前半のヨーロッパの生命表を適用することが試され、縄文人の平均寿命が15歳と推定されました。もちろん、縄文時代では18世紀のヨーロッパよりも子供の死亡数が多かったでしょうから、実際の平均寿命は15歳よりも若かったでしょう。これとは別に、15歳以上のデータを利用して統計的に15歳末満の死亡数を評価する手法からは、平均寿命が12歳と推定されました。これらの推定値から縄文時代の平均寿命は、10代前半であったと考えられます。

写真1:三内丸山遺跡、子供の墓(埋設土器)
写真2:三内丸山遺跡、大人の墓(土杭墓)
三内丸山遺跡では、子供の墓と大人の墓は別な場所に作られました。子供の墓は、土器を利用したもので、住居に隣接しており、大人の墓は集落の東側に2列に向かい合うように配置されています。

 図1は、縄文人から現代までの生命表から作成した生存数曲線(10万人が生まれたとして、死亡による減少を表した曲線)です。18世紀のウィーンでも5歳までに約半数が死亡しており、平均寿命を低くする大きな原因でした。日本でも大正時代には、10歳までに約25%が死亡していました。乳幼児の死亡率が大きく低下したのは、太平洋戦争後のことですが、このことが、平均寿命の長くなったことに大きく貢献しました。図2は、1920年代からの日本人男女の平均寿命のグラフです。太平洋戦争中のデータがありませんが、大正時代からずっと平均寿命が伸びてきていることがわかります。現在、日本は、男女とも平均寿命が世界で最も長い国々の一つとなっています。
(小野寺 淳一)

図1 縄文人から現代人までの生存数曲線
図2 我が国における平均寿命の推移
 

 

 
三内丸山遺跡の写真は、青森県教育委員会の御好意により提供いただきました。ここに謝意を表します。
このミニ百科の執筆では、以下の文献を参考としました。
小林 和正:出土人骨による日本縄文時代人の寿命の推定、人口問題研究、No.102、1-10、1967
菱沼 従尹:寿命の限界をさぐる−生命表にみるヒトの寿命史、東洋経済新報社、1978
古川 俊之:寿命の数理、朝倉書店、1996
厚生省大臣官房統計情報部:第18回生命表、1998
 
   
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