下北の広いこの山野がまだきわめて粗放な利用しかされていないのは、やはり夏のヤマセが一つの障壁になっているのではないか。7月から8月にかけて東よりの風が多く、その風は雨雲をひくく海から吹きつけ、海岸から6キロまでの間の山野をおおい、こぬか雨のような雨を降らせる。それが大地を冷たくさせてしまって、真夏だというのにいろりの火がたやせない。それがこの地に住む人たちの生活をどれほど暗くしていることか…。
 これは民俗学者・宮本常一氏の紀行文「私の日本地図・下北半島」の一節であるそうです。ヤマセが本県の太平洋沿岸地帯の風土とそこで暮らす人たちにどんなかかわりを持っているかを、的確に言い表していると思います。

 
 
阿部亥三氏のヤマセ地域区分
 
 ヤマセとはオホーツク高気圧の出現によって、冷たい海霧や下層雲をともなった北東気流が、北海道や東北地方の太平洋沿岸に吹き付ける現象です。このヤマセは古くから本県の太平洋沿岸地帯の冷害の元凶で、「ケガジ(飢饉)は海から来る」とそこに住む人たちに伝えてきました。ヤマセはもともと冷たい風で気温の上昇をさまたげます。これが、7月〜8月に連続して現れる年があって、このような年には南方原産の稲に大きな被害をもたらします。
 ヤマセによって稲の収量が極端に減少して飢饉になったという記録が、本県では古くから数多く残されています。天明3年(1783年)も記録的な飢饉であったといわれています。このときの八戸市の記録によりますと、田を代かきしていた馬が倒れるほどの低温が続さ、田植えが終わったのは6月末であったそうです。これに洪水が追い打ちをかけたので、石高2万石の八戸蕃のコメの損害は1万5千石で、アワ・ヒエ・ソバもほとんど収穫できなかったそうです。食べる物がなくなった多くの農民は、クズ・ワラビ・オオバコ・カヤなどの根を掘って食べました。これも不足するようになると、商家や神社・寺などにたむろし、寒さが深まると多くの人が死んだそうです。
 
 
史料に見る餓死者
 

 このような飢饉は、国内でコメが余っている現在では昔話になりつつある一方で、ヤマセに影響される地帯に住む人たちの暮らしも大きく変化しました。高速道路の整備で大都市への輸送が容易になったことを契機に、この地帯の農業は急展開しています。稲作には諸悪の根元であったヤマセを、逆に低温を好む野菜の生産に利用したのです。日本の多くの農村が米価の低迷で苦悩している中で、ヤマセ地帯は夏のナガイモ・ダイコン・ニンジン・ゴボウ・キャベツなどの大産地に発展させ、ヤマセに負けない農業を築き上げました。この背景には、ヤマセに耐えしのいできた人たちの不屈な精神が活きていることは間違いありません。
(竹村 達男)

 
このミニ百科の執筆では、以下の文献を参考にしました。
長谷誠一外:風土の刻印・ヤマセ北東風社会、東奥日報社、昭58。
東北農業試験場創立50周年記念事業会:ヤマセ気候に生きる、平11。
 
   
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