菅江真澄の博物学

 菅江真澄(1754〔宝暦4〕年〜1829〔文政12〕年)は、江戸時代後期の民俗学者、国文学者、紀行文作者、歌人として有名です。間宮海峡で有名な間宮林蔵より年長ですがほぼ同時代人です。六ヶ所村の歌紀行であるビデオ『真澄の夢』が、平成6年度『新映像フォーラム in 柏崎』で最優秀作品となったことはご存じの方も多いでしょう(財団法人ハイビジョン普及支援センター主催)。村内随所で、また当研究所でも上映されました。しかしながら、北海道・東北地方踏査の記録である「菅江真澄遊覧記」(全5巻 内田武志・宮本常一編訳、平凡社、1968年)でみてみると、植物(医・薬学)、動物、鉱物(地質・鉱物学、鉱山学)、地理等への強い好奇心による緻密な観察や考察に溢れていて歌人としてというよりも、むしろ博物学者としての面が強く表れています。編訳者の一人宮本は(原著には)和歌が多数に挿入されているが、それらの多くを除き、資料として価値あるところを現代文になおしたと述ペています。つまり、歌人としての真澄をあえて切り捨てることで、博物学者菅江真澄の面目躍如たるものになっています。それではここでタイムトンネルをくぐって、菅江真澄の一行と共に、少し村内を歩いてみることにしましょう。

 
 

六ヶ所村、泊の畳岩

 
 
旅のあと
ぽっとあげ(昭和30年頃)
 時は、寛政5(1793)年11月30日。菅江真澄の一行は田名部から白糠を経て物見崎を見ながら泊に入ります。『次左衛門ころばし』(次左衛門という人が昔落っこちたという所)や『岩石おとし』と呼ばれる、空の雲をふむような心地のする狭い路をとおります。風光はすばらしいのですが眼下を眺めわたすと、目もくらみ足も浮くばかりです。『おおあな』という所まで来ると岩穴(牛穴)があります。昔、放牧の牛がこの中に入り、はるばると進んで行って、這い出したところが、横浜(上北郡横浜町)の『牛の沢』で『牛の岩』もあるとか。行く道が左右から迫っていて身動きもできない所に、まるでそうめんを掛けたように見える滝、『そうめんが滝』があります。『しらすなのはま』という所をすすんで行くと、足元から突然3〜4尋(ひろ)(5〜6メートル)もの水ばしらがサッと高く打ち上がりました。これが『ぽっとあげ』で、このあたりは、波が寄せて来ない間に通り越す磯部だから、と促されます。それでも真澄は、この磯部に横たわっている岩に長い横穴があって、そこに波が入ると、ごろごろと雷鳴が響くように鳴り、水鉄砲で水をあげるように、また鯨のしおふきから潮を吹き飛ばすように勢いよく海水が吹き上がるからだ、と観察を楽しみながら、考察を深め、一向に急ぐ様子もありません。「おもしろいと思って振り返って見ていると、ちどりが鳴いた」などとのんきなことをいっています。  一行は、やきもきするばかりです。こんな風にして進みながら、泊の浦の長、種市家に着きます。(11/30〜12/1)。北川、南川、石川、棚沢、出戸(12/2〜4)、老部川と進み、烏帽子山を望み、十年あまり心にかかって捜していた尾駮(12/5〜6)の牧を尋ねあてたことをよろこんでいます。室の久保、有度野を経て野辺地の港に到る路を行きたいのに、雪が深いからと差し止めされ、引き返して、泊の浦(12/7〜11)、中山崎から海路、白糠に到り、田名部へと帰って行きます。
「真澄の路」は、村の大いなる知的遺産の一つですし、また貴重な観光資源でもあります。
(荒谷 美智)
 
〔旅のあと〕は平凡社東洋文庫82菅江真澄遊覧記3の62頁より転載させて頂きました。また、写真は六ヶ所村教育委員会村史編纂室よりご提供頂きました。ここに謝意を表します。  
   
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